
ども、中学時代はバスケ部だったユウセイです。
悲しいニュースを目にしました。スラムダンクに登場する旅館「ちどり荘」のモデルとなった「みどり荘」が閉館するというもの。
行ったこともないし、写真ですら見たこと無いですが、あの湘北高校のメンバーが宿泊した旅館が無くなるとあって、少し悲しいものがこみ上げます。
中学時代、自分も遠征試合にて旅館に宿泊したことがあります。どこの県であったかも、対戦相手の学校名すら忘れてしまいましたが…
だた、旅館の名前はハッキリと覚えています。「大黒屋」という旅館です。ごくありふれた名前で、日本全国津々浦々、旅館以外でもよく耳にし目にする名前です。
そんなありふれた名前だから覚えていたのでしょうか?
否。
断じて否です。
私が旅館の名前をハッキリと覚えていたのは、その旅館で起きたことが忘れられないからです。
中学1年が終わろうとしていたころ、顧問のF先生が離任され、どこか他の学校に行くと聞かされました。
次の遠征試合が、F先生との最後の試合になるとあって、先輩たちの気合いも並々ならぬものがあった。そんな気がしています。
キャプテンのM君は特に気合いが入っており、その気合いに下級生の僕達も触発された。そんな気がしています。
そして当日、遠征地に向けてバスが出発。夕方近くに旅館に着きました。正直言うと、旅館とは言い難い建物であり、本当にここに泊まるのか?て言うかここは泊まれる施設なのか?
きっと誰もがそんな思いをなんとか押し殺していました。なぜなら、旅館どうこうより、明日の試合、先生との最後の試合のことに集中していたからです。
多分。
さて、その旅館風の建物へと入り、雑魚寝となる部屋に通されました。
旅館というより民宿。そして民宿と言うと民宿に失礼なんじゃないかという室内に、部員誰もが「あとは寝るだけだな」と覚悟した瞬間でした。
テレビも無く、決して広いとは言えないけど広間と称される空間に、隙間なく人数分の布団が敷かれていましたから。
布団の場所決めも特に揉めること無く(と言うかどこで寝ても変わらない)、みんなジャージに着替え始めました。
その時、先輩のY君が言いました。
「一応旅館なんだから、浴衣みたいなもん無いの?」
よくこんなところの浴衣を着る気になるな、お主正気か?とも思いながらも、先輩の言葉に下級生の僕たちは探さざるをえませんでした。
狭い室内に浴衣らしきものは見当たりませんでしたが、入口のふすまの横に押入れのような扉がありました。
まぁ、浴衣があるとすればここしか無いというスペースで、僕は同級生のS君と一緒にその扉を開けました。
そこに、
浴衣は、、
ありませんでした、、、
でも、、、、
おびただしい数の成年誌が乱雑に積まれていました。いや、正確には適当にぶっ込んでありました。
当時、私も中学1年。多感な時期です。思春期真っ盛りです。興味が無いはずがありません。
でも、その本に触れることはできませんでした。
平成に入って数年が過ぎていましたが、明らかに昭和50年代の雰囲気を醸し出しているそれらの本に、ただただS君と立ち尽くすことしかできませんでした。
僕らの様子に気がついたO君が駆けつけてくれました。O君は必死に平静を装いながら、「閉めたほうがいいよ」と言ってくれました。
その言葉で我に返った私とS君は、そっと扉を閉めようとしました。
でも閉まりませんでした。
乱雑に置かれた本が崩れ落ち、扉が閉まらなくなっていたのです。
そうこうしている内に、浴衣を求めるY先輩に見つかってしまいました。
私たちは、「浴衣を探さずに変なもの見つけやがってと怒られる」そう感じて覚悟しましたが、Y先輩の意識はとっくに私達から成年誌に向けられていました。
まるで浴衣など初めから探していなかったかのように…
完全に刮目していました。ええ、昭和の成年誌に…
その後Y先輩は何冊か物色し、厠と称するに相応しい便所に向かって行きました。
もう私達にできる事は何もなく、ただ布団に入り寝るだけでした。
開け閉めされる扉の音が響く夜はとても長く、先輩ってやっぱすげぇなと感心するばかりでした。
そんな夜を過ごした私達バスケ部が、翌日の試合に勝てるわけも無く、先生との最後の試合は惜敗という結果で終わりました。
というわけで、「みどり荘」の閉館はこんなところにまで影響があるということを伝えたく、今回のブログを書いた次第です。
みどり荘は無くなったけれど、ちどり荘としても含めて、利用者そして読者の心に深く刻み込まれていることでしょう。
みどり荘、ちどり荘、そして大黒屋。
本当にありがとうございました。
せば、これにて。
※多少のフィクションを含みますが、感じ方は人それそれです。